平宗について

平宗の歴史 原点

文久元年創業 柿の葉ずし 平宗の原点

海のない山深い吉野から

創業1861
平宗は江戸時代末期、文久元年(1861年)。奈良は吉野上市村にて、すし・川魚・乾物の製造販売を始めました。

今から遡ること150余年、ちょうど坂本龍馬ら幕末の志士たちが活躍していた時代です。上市は室町時代から商業地として栄えたところ。伊勢街道筋にあり、山上詣・高野詣・伊勢詣の拠点であり、吉野川筋の奥の山里を商圏とした市場町・街道町でした。また日本三大美林の一つに数えられる吉野杉の集積地として材木市がたち、多くの買い付け人で賑わいました。明治に入ると平宗は料理旅館を営み、鮎料理・山菜料理などを提供するようになり、その一品として江戸時代中頃より夏祭りのご馳走として吉野の家庭で作られていた柿の葉ずしを遠来のお客様に振る舞いはじめます。

こうして、郷土の家庭料理であった柿の葉ずしが吉野の名物として商品化されていきます。

忘れられない出来事

昭和26年(1951年)11月、私たち平宗にとって忘れられない出来事がありました。
昭和天皇陛下が奈良大和路を御巡幸なされた折、吉野の名物として、お食事に当店の鮎ずしを献上させて頂いたのです。
当時のパンフレットには、「賜無上之光栄」と題し、「この無上の光栄に感激致しまして愈々調味調理に一層専念努力いたし以て多年の御愛顧に酬ひたき決心で御座います」と、ほとばしる喜びがつづられています。当時の料理人たちが、どれほど大きな感激と誇りを抱いたことか、想像に難くありません。

私どもは、ご献上差し上げた鮎ずしを「献上鮎すし」と名付けました。「献上」の二字を目にするたび胸にこみ上げるのは、先人の心意気です。陛下が召される献上品を料理する、そのプレッシャー、そして一品にかける思いの強さは大変なものだったでしょう。

『献上鮎鮨の事』
平宗と鮎ずしとの関わりをしるしています。
『当時折に添えていたパンフレット』
「賜無上之光栄」と題し、献上の際の喜びがつづられています。
昭和26年11月9日
産業経済新聞
昭和26年11月3日 朝日新聞
昭和26年11月8日 大阪毎日新聞

私どもは、この先人の心意気を忘れず、同じ思いで料理を供するべく精進してまいります。

毎年4月8日と5月8日に吉野の七つの郷(新住 下市 阿知賀 六田 飯貝 上市 増田)から当番で鮎ずしを御所へと献上していました。

平宗という屋号で創業する前、大和上市の平井家は鮎ずし(ナレずし)を調製し京都御所内の仙洞御所に献上していました。
奈良・吉野川の桜の花びらを食べて育ったという天然の鮎は格別の味とされ、当時、吉野の村々より毎年、鮎ずしとなって御所に献上されていました。これは「釣瓶ずし」と呼ばれ、浄瑠璃『義経千本桜』にも登場する有名なものです。

  • 鮎ずしと言っても、いまの酢締めの姿ずしではなく、ナレずし
  • 江戸時代の版画集、五機内産物図絵には大和国の名物として、鮎ずしが取り上げられています。
  • そもそもこの吉野七郷は千早ぶる 神世のむかしより 花のよしの川 月の妹背山にひとりして 日夜清流 岸をあらひ朝遣る 松風軒をさらして その清きこと 他の村里と異なり 君が世の君に なるるや釣瓶ずし さくらのわたりかみいちの里
    上は右の版画の文章を楷書にしたもの、美しい上市が詠まれています。
  • 職人がマスクをして鮎をさばいています。
  • 七郷の庄屋さんが7人裃をつけて何やら相談しています。
  • この版画にあるように鮎のつけ桶が井戸の釣瓶に似ていたことから鮎ずしのことを吉野では釣瓶ずしと呼んでいました。
「すしや娘おさと 実はよしつね娘ひな鳥」
尾上 松助
「弥助」
坂東 三津五郎
「いがみの権太」
尾上 菊五郎
義経千本桜 すしやの段中村扇雀時代の4代目 坂田 藤十郎

義経千本桜』は吉野が舞台となった義太夫狂言三大傑作の一つで、「すしや」の段には「いがみの権太」という人物が登場します。

この舞台となったすしやは、下市で「釣瓶(鮎)ずし」つまり鮎のなれずしの商いをしており、実はこの作品のモデルとなったお店が今もご商売を続けておられます。〈下市にある弥助ずし(宅田)さんです。〉なれずしは桶売りなので、物語のすしやには、にぎりずしやカウンター、お客も無く、「へいらっしゃい」という威勢のいいかけ声も聞こえませんが、吉野とすしの長い歴史をしのばせてくれれます。

肝心のストーリーは、すしやにかくまわれた平維盛の詮議を軸として展開し、最後には親不孝者の親孝行が仇となり、権太が死んでゆく何とも切ないお話で、その中で、釣瓶ずしの桶はお金を隠したり、生首を入れたりと、ストーリーのキーになるアイテムになっています。

谷崎潤一郎は、著書『陰翳礼讃』の一節に柿の葉ずしのことを記しています。
昭和の初期に、日本古来の影と光の文化が西洋文明の浸食によって危機に瀕していると警鐘を鳴らすとともに、日本の山里の伝統文化にも触れ、柿の葉ずしのことを江戸前とは別格のすしで、物資に乏しいにも関わらずなんと贅沢な物を山里の者たちは食べているのかと評しました。彼自身も自宅に柿の葉と新巻鮭を取り寄せ、夏場は鮭の柿の葉ずしばかりを好んで食べていたと言われています。
また、平宗とご縁のある宿「櫻花壇」に逗留して、名作『吉野葛』を執筆しました。執筆中、吉野の魅力に取り憑かれ、いろいろなところを廻っています。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』中公文庫『陰翳礼讃 改版』(中央公論社)より